2026.10.02
岡田煉瓦に残る、ひとつの「角窯」
― 朽ちた窯を調べると、会社の歴史が見えてきた ―
現在、岡田煉瓦の敷地の片隅に、一つの古い煉瓦造りの窯が残っています。天井はすでに崩れ、壁の一部も崩壊し、煉瓦の隙間からは草が生えています。毎日見ている私たちにとっては、「昔からそこにある古い窯」です。しかし、改めて調べてみると、この朽ちた窯にも岡田煉瓦の歴史が残っていました。

今では、この姿だけを見て、かつてどのような窯だったのかを想像するのは簡単ではありません。ところが岡田煉瓦には、その答えを知るための資料が残っていました。
「甲窯」「乙窯」「丙窯」「丁窯」
岡田煉瓦に残る昭和12年頃の工場平面図を見ると、現在とはまったく違う工場の姿が見えてきます。当時の工場には複数の角窯があり、それぞれに、「甲窯」「乙窯」「丙窯」「丁窯」と名前が付けられていました。

現在の工場だけを知る私たちにとって、この一枚の地図はとても興味深い資料です。今ではなくなった工場や建物があり、その中にいくつもの窯が配置されています。そして現在、敷地内に残っている角窯が、その中の「丁窯」です。昔からそこにある朽ちた窯に、「丁窯」という名前があった。それだけでも、今までとは少し違って見えてきます。
約30年前には、まだ形を保っていた
1997年、岡田煉瓦の創業100年を記念して『岡田煉瓦100年史』を制作しました。その当時、丁窯はまだ現在よりも形を保っており、調査・実測された図面も残されています。

そこには、「耐火煉瓦製造用の角窯の実測図」として、丁窯の平面図と断面図が記録されています。窯の大きさや内部空間、焚口など、現在の崩れた姿からだけでは分からない構造を見ることができます。現在残っている「遺構」。昭和12年頃の「工場平面図」。そして1997年に残された「実測図」。別々の時代の資料を重ねていくと、目の前にある朽ちた煉瓦の塊が、かつて岡田煉瓦のものづくりを支えた製造設備だったことが少しずつ見えてきます。
「角窯」とは、どんな窯だったのか
角窯は、その名前の通り、平面が四角い窯です。北海道・江別市セラミックアートセンターを訪れた際、「れんが資料展示室」に角窯の構造を説明する図が展示されていました。構造図を見ると、窯の両側に焚口があり、そこで燃料を焚く構造になっています。焚口から上昇した炎や熱は窯の上部へ向かい、積み上げられた製品の間を通りながら下降し、床下の煙道から煙突へ抜けていきます。
※構造図:江別市セラミックアートセンター展示資料を撮影(図版提供:瀬戸蔵ミュージアム)

現在の岡田煉瓦では、長いトンネル窯を使っています。煉瓦を載せた台車が窯の中を少しずつ進みながら焼成されていきます。それに対して角窯は、窯の中に製品を積み、その窯全体を加熱して焼く。同じ「煉瓦を焼く」という仕事でも、その方法は大きく変わりました。
人が火と向き合っていた時代
構造図を見ると、角窯の仕組みは分かります。しかし、昔の写真を見ると、当時のものづくりがもっと現実のものとして見えてきます。

一人の職人が、窯の焚口へ燃料を投入しています。現在のトンネル窯では、重油が設備から自動的に供給され、バーナーによって燃焼します。しかし、この時代は人が窯の前に立ち、自ら燃料を投入して火と向き合っていました。前回のコラムで紹介した「焼過」も、もともとはこうした昔の窯の中で生まれた煉瓦です。窯の中には場所による温度差があり、強く火を受けるところもあった。そうした昔の焼成を考えるうえでも、角窯は岡田煉瓦の「焼過」の歴史につながる存在です。ただ、今回この丁窯を調べていて、もう一つ興味深いことが分かりました。この窯では、何を焼いていたのか。
丁窯でつくられていた「耐火煉瓦」
『岡田100年史』に残された実測図には、「耐火煉瓦製造用の角窯」と記されています。つまり、現在残っている丁窯では、耐火煉瓦が製造されていました。現在の岡田煉瓦といえば、赤煉瓦や舗装用煉瓦のイメージが強いと思います。しかし、かつては耐火煉瓦も製造していました。そして岡田煉瓦には、その製品そのものも残っています。

煉瓦の表面を見ると、「OTR」とともに、「SK30」という刻印があります。これは耐火煉瓦の耐火度を示す表示です。今となっては、一つの古い煉瓦です。しかし、丁窯の実測図と一緒に見ると、意味が変わってきます。この窯で、こうした耐火煉瓦を焼いていた。図面だけでもなく、写真だけでもなく、製品だけでもない。それぞれがつながることで、当時の岡田煉瓦のものづくりが、少し具体的に見えてきます。
煉瓦を焼く窯も、煉瓦でできている
現在の丁窯を改めて見ていて、もう一つ面白いと感じることがあります。岡田煉瓦は、煉瓦をつくる会社です。そして、その煉瓦を焼くための窯そのものも、たくさんの煉瓦によってつくられています。製品としてつくられた煉瓦。その製品を焼くために使われた煉瓦。長い年月が経ち、現在では窯そのものが岡田煉瓦の歴史を伝える存在になっています。きれいな産業遺産として保存されているわけではありません。天井は崩れ、壁も傷み、植物が生えています。少しずつ朽ちていっています。だからこそ、今の姿を写真に残し、昔の資料と照らし合わせ、
「これは何だったのか」
を知っておくことにも意味があるのだと思います。
朽ちた窯を調べると、物語が見えてきた
工場の中には、昔からあるために、かえって気にも留めなくなっているものがあります。古い建物。使われなくなった設備。昔の図面。そして、倉庫に残る古い煉瓦。今回の丁窯も、私にとっては昔から敷地内にある、朽ちた窯でした。しかし、調べてみると、「丁窯」という名前があり、昭和12年頃の工場平面図があり、実測図があり、そこで火を扱う人の写真があり、そこでつくられていた耐火煉瓦まで残っていました。一つひとつは、ただの古い資料や古いものかもしれません。でも、それらをつなぎ合わせると、岡田煉瓦が、何を、どのような窯で、どのように焼いてきたのか。その物語が見えてきます。岡田煉瓦の敷地内に、朽ちた窯がある。ただ、それだけのことかもしれません。でも、調べてみれば、そこには岡田煉瓦が煉瓦を焼いてきた時間が残っていました。創業から130年近く。昔のことを知っている人も、少しずつ少なくなっています。だからこそ、今残っているものを見て、調べて、記録しておく。新しいものをつくるだけではなく、今あるものから、昔のものづくりを知る。今回、朽ちた「丁窯」を調べたことで、私たち自身も知らなかった岡田煉瓦の姿を、また一つ知ることができました。もしかすると工場の中には、まだ私たち自身も気づいていない岡田煉瓦の物語が残っているのかもしれません。古いものを残すだけではなく、そこに残された物語も次の世代へつないでいく。それも、長く煉瓦をつくり続けてきた私たちの仕事なのだと思います。





