OKADA BRICK 岡田煉瓦製造所

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2026.04.10

なぜ、岡田煉瓦だったのか ― 明治32年の謎に挑む

明日、浦賀ドックの文化財調査のため、調査員の先生方が弊社に来られます。明治32年(1899年)、岡田煉瓦は浦賀ドックへレンガを100万個納入しました。初回50万5千個、そして追加で50万個。契約書も現存しており、これは紛れもない歴史的事実です。しかし、ずっと解けていない謎があります。それは「なぜ、岡田煉瓦だったのか」という問いです。

資料には、浦賀ドックが当初、横須賀市久比里にレンガ製造所を新設したことが明確に記されています。ところが、そのレンガは品質不良と判断され、契約は解除。さらにはレンガ以外の資材の使用まで検討されたと書かれています。つまり、レンガそのものをやめる可能性すらあったということです。その緊迫した状況の中で、最終的に契約されたのが岡田煉瓦でした。当時、日本には約1000社ものレンガメーカーが存在していたと言われています。その中から、なぜ愛知の岡田煉瓦が選ばれたのか。価格だったのか、品質だったのか、それとも誰かの推薦だったのか。その理由はいまだ分かっていません。

私が浦賀ドックとの関係を知ったのは2013年頃でした。そして2021年、長崎県埋蔵文化財センター様からご連絡をいただき、佐世保で岡田煉瓦のレンガが発見されたことを知りました。時期はやはり明治32年前後。浦賀、佐世保、そして明治31年に竣工した半田赤レンガ建物。これらの点が、頭の中で少しずつつながり始めました。そしてある瞬間、ひとつの仮説が浮かびました。「妻木頼黄ではないか」と。

半田赤レンガ建物の設計者であり、明治建築界を代表する建築家である妻木頼黄。もし半田で岡田煉瓦の品質が評価され、その情報が技師や関係者の間で共有されていたとしたらどうだろうか。インターネットもなく、情報が人づてに伝わる時代に、「このレンガは良い」という確かな実績が、国家的事業の判断に影響を与えた可能性はないだろうか。もちろん現時点では証拠はなく、あくまで仮説に過ぎません。しかし、これまでばらばらだった事実が一本の線でつながる感覚があり、正直に言うと鳥肌が立ちました。

品質不良による契約解除という危機の中で、遠く離れた愛知の一工場が選ばれた。その背景には、必ず理由があるはずです。もしそこに妻木頼黄というキーマンの存在が見えてくるとしたら、それは岡田煉瓦の歴史だけでなく、日本の近代建築史の一部をつなぐ物語になるかもしれません。かつて1000社あったレンガ工場は、今や一桁にまで減りました。その中の一つが、明治という時代の重要な局面で選ばれたレンガであったとしたら、これほど考え深いことはありません。明日の調査が、130年前の決断の理由に少しでも近づくきっかけになればと思っています。歴史はまだ解明されていません。その謎に向き合うこの時間そのものが、今はたまらなくドキドキしています。

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