OKADA BRICK 岡田煉瓦製造所

Column

コラム

「謹製」という言葉に込めて

受け継がれる、
 ものづくりの姿勢

2026.10.02

明治から続く、岡田煉瓦「焼過」の系譜③

― 浦賀から野蒜へ。受け継がれた「焼過」の思想 ―

この三部作の始まりは、一つの小さな疑問でした。同じ白地を、同じ「還元焼成」で焼いたのに、別の窯では茶色になり、岡田煉瓦では赤紫色になった。その違いから、これまで当たり前だと思っていた自分たちの焼き方を、初めて見つめ直すことになりました。そして歴史を遡っていくと、明治32年の浦賀ドックにたどり着きました。そこに残されていた言葉が、「上等焼過煉瓦」。120年以上前、創業間もない岡田煉瓦に、すでに「焼過」と呼ばれる煉瓦がありました。そして現在も、私たちは「焼過」を焼いています。では、明治の「焼過」と現在の「焼過」は、何でつながっているのでしょうか。

「赤還元」と呼んだ方が正しいと思っていた

実は私は以前から、焼過ではなく、『赤還元』と呼んだ方が正しいのではないかと思っていました。現在の焼過は、昔の窯の中で偶然焼き過ぎてしまった煉瓦ではありません。温度や焼成条件を管理し、意図してつくっています。技術的に説明するなら、「赤還元」という言葉の方が分かりやすいようにも思えました。しかし今回、他社の還元焼成を知り、自分たちの焼き方を見直し、さらに明治時代まで歴史を遡ったことで、その考えが変わりました。「焼過」は、単なる色や焼き方の名前ではないのではないか。そう思うようになりました。

窯も、火の扱い方も変わった

明治から現在までの120年以上の間に、煉瓦の焼き方は大きく変わりました。昔は、職人が窯の状態を見ながら、自ら燃料を投入して火と向き合っていました。現在はトンネル窯となり、重油は設備から自動的に供給され、バーナーによって燃焼します。温度を確認しながら、燃焼を管理する時代になりました。

窯も変わった。燃料も変わった。火の扱い方も変わった。そして、煉瓦をつくる人も世代を重ねてきました。それでも、「焼過」という名前は残りました。もちろん、明治時代とまったく同じ製法で焼過をつくり続けているわけではありません。では、何が受け継がれてきたのでしょうか。その答えを考えるとき、岡田煉瓦にとって非常に分かりやすい場所があります。宮城県東松島市の野蒜水門です。

野蒜水門のためにつくった、特注の「焼過」

野蒜水門に納めた煉瓦は、通常の焼過ではありません。この場所のためにつくった、特注の「焼過」です。強度を意識し、通常よりも高い温度で、煉瓦として形を保てる限界近くまで焼き締めました。言ってしまえば、「ガチガチに焼いた焼過レンガ」です。そして野蒜水門を見ると、表面に大きなコブが付いた煉瓦が数多く使われています。

このコブは、高温で焼成する中で煉瓦同士が溶着し、それを離した際に残ったものです。通常の製品であれば、煉瓦同士が溶着しないように温度管理を徹底します。しかし野蒜水門では違いました。限界近くまで焼き締め、コブまで意匠として採用していただきました。きれいに揃っていることではなく、「ここまで焼いた」ことそのものを、煉瓦の表情として見せる。私にとって、これほど「焼過」という煉瓦を分かりやすく表しているものはありません。コブは、強い火を受けた痕跡です。そして同時に、強度を意識し、限界近くまで焼き締めたことを目で見ることのできる痕跡でもあります。

浦賀と野蒜。同じ「焼過」の思想

ここで、明治32年の浦賀ドックへ話が戻ります。浦賀ドックの記録に残る、「上等焼過煉瓦」。そして100年以上後、野蒜水門のために特注でつくった、限界近くまで焼き締めた「焼過」。時代は100年以上離れています。窯も違います。燃料も違います。焼成方法も同じではありません。それでも、この二つには共通するものがあるように思います。それは、強度を意識し、しっかりと火を入れ、限界近くまで焼き締めた煉瓦であること。私は、ここに岡田煉瓦の「焼過」の原点があるのだと思います。浦賀と野蒜。二つの水辺の構造物に使われた、二つの「焼過」。同じ製法でつくられたわけではありません。それでも、「強く、長く残る煉瓦をつくる」という、ものづくりの思想は同じです。

そして、野蒜水門は残った

2011年、東日本大震災。野蒜地区は、津波によって大きな被害を受けました。その中で、野蒜水門は残りました。もちろん、水門が残った理由を煉瓦だけに求めることはできません。構造、設計、施工、基礎など、さまざまな要因があります。それでも、私は野蒜水門の壁面を見ると、特別なものを感じます。そこに使われているのは、普通に焼いた煉瓦ではありません。強度を意識し、限界近くまで攻めて焼いた、特注の焼過です。煉瓦同士が溶着し、コブができるほど火を入れた。通常なら選別されるそのコブまで、「焼過」の表情として採用していただいた。残ったから、強く焼いたのではありません。強く、長く残るものをつくろうとして、最初から限界近くまで焼き締めた。そして、その煉瓦を使った水門が今も残っている。私にとって野蒜水門は、岡田煉瓦の「焼過」とは何かを、最も分かりやすく見せてくれる場所です。

受け継いだのは、製法ではなく「思想」

明治時代と現在では、煉瓦のつくり方は大きく変わりました。だから、「120年以上、同じ製法で焼過をつくり続けてきた」という話ではありません。また、現在の焼成方法が、明治時代の焼過を再現するためにつくられたという資料が残っているわけでもありません。それでも、明治32年には「上等焼過煉瓦」がありました。そして100年以上後の野蒜水門でも、私たちは強度を意識して、限界近くまで焼き締めた「焼過」をつくっています。窯は変わった。燃料も変わった。焼き方も変わった。人も変わった。それでも、「強く、長く残る煉瓦をつくるために、しっかりと焼き締める。」その考え方は、浦賀から野蒜へとつながっています。受け継いできたのは、昔の製法そのものではなく、「焼過をつくる」という思想なのかもしれません。

やはり、私たちは「焼過」と呼びたい

今回の話の始まりは、本当に小さな疑問でした。同じ白地なのに、なぜ色が違うのだろう。そこから自分たちの焼成方法を見直し、「なぜ、わざわざ重油を追加するのだろう」と考え、歴史を遡っていくと、明治時代の「上等焼過煉瓦」までたどり着きました。そして100年以上後の野蒜水門では、強度を意識し、限界近くまで焼き締めた特注の「焼過」をつくっている。これまで私は、焼過より、『赤還元』と呼んだ方が正しいのではないかと思っていました。でも今は、やはり、岡田煉瓦の煉瓦は「焼過」が一番しっくりきます。「赤還元」は、現在の色や焼成方法を説明するには分かりやすい言葉です。しかし「焼過」には、それだけではないものがあります。明治の窯。火と向き合った職人たち。浦賀へ運ばれた「上等焼過煉瓦」。そして100年以上後、野蒜水門のために限界近くまで焼き締めた、コブ付きの焼過。「焼過」という二文字には、岡田煉瓦が受け継いできた、ものづくりの思想まで含まれている。今は、そう思っています。

岡田煉瓦の原点、「焼過」

「焼過」は、岡田煉瓦だけのものではありません。現在の岡田煉瓦の焼過が、他社の煉瓦と比較して特別に強い、と言いたいわけでもありません。それでも、岡田煉瓦の「焼過」には、岡田煉瓦にしか語れない物語があります。明治32年、浦賀ドックの「上等焼過煉瓦」。100年以上後、野蒜水門の特注「焼過」。二つをつないでいるのは、同じ窯でも、同じ燃料でも、同じ製法でもありません。「強く、長く残る煉瓦をつくるために、限界近くまで焼き締める」という思想です。それこそが、岡田煉瓦の原点である「焼過」。そして120年を越えて続く、岡田煉瓦「焼過」の系譜なのだと思います。私たちしか知らない、岡田煉瓦の「焼過」。誰かが話さなければ、いつか忘れられてしまうような小さな物語です。だからこそ、今、残しておきたいと思います。そして、煉瓦とともに次の世代へつないでいきたい。窯は変わっても、「焼過」を焼くという思想は変わらない。120年を越えて、私たちはこれからも「焼過」を焼いていきます。

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